公開日: 2020/10/26  最終更新日: 2021/08/02

先日、久しぶりにSNSに投稿してみたら
地元の友達がお返事を返してくれて、嬉しくなりました。

それも、「今どうしてるの?」という根掘り葉掘りではなくて
純粋にその投稿に対する反応のコメントをたった一言だけくれたというのが
さらに嬉しかったのです。

その友人とは何年も会っていないし、
今どこで何しているか、詳しいことはお互いよくわかりません。
それでも、今ここの「好き」を共有できる。

なんかこういうのって、いいなと感じたのです。

つながるためにすべてを知る必要はない、
会う必要すらない

その相手とつながるためには、つながりを感じるためには
どこに住んでいるのとか、何の仕事してるのとか
そんなこといちいち把握する必要はなくて

たった一言でも、その人らしい言葉をもらえるだけで
その人がどこかでその人らしく生きているのは十分にわかりますからね。

相手と関わる体験価値は
元気でもそうでなくても同じ

人は元気かどうかを確かめたがりますが
極論、べつに自分や相手が元気がなかろうと、病気であろうと
関係ないと思っています。

今この瞬間生きていてその人がその人であることには変わりありませんし、
仮に相手が病気だったとしても、医者でもない限りできることなんてたかが知れています。
いずれにしても「相手と関わる」こと自体の体験価値が変わるわけではありません。

だとするとそれって、もはや会う必要すらないのかも
会っていなくてもつながれている感じがするならそれで充分なのかもと
そのやりとりから気が付いたのでした。

すごいですよね。
会っていない時間や、住んでいる距離や
お互い知らぬ間に変わってきたライフステージという垣根をすっ飛ばして
たった一言でつながり直せるんですから。

縛り合い把握し合うのは
友情ではなくエゴ

逆に、久しぶりに連絡を取ると
「それより今仕事何してるの」「今も○○に住んでるの」
根掘り葉掘り聞いてくる人も多くいます。

または、「たまには飲み会に来てよ」と責められたり
「(連絡がつきにくいから)グループLINEに入ってよ」と
懇願されることも。
(わたしは脱サラしてからLINEアカウントを削除し
それ以降、アカウントを作り直してからもグループLINEは嫌いなので全て断っています)

友達に報連相は必要?

たしかに気持ちはすごくわかります。
わたしも久しぶりの友人に会ったら、
今どうしてるか聞きたくなるし、気になるし、聞くと思います。

だけど、友達でいるために相手のステータスをくまなく把握したり
「(友達なんだから)グループLINEに入ってよ」
「(仲間なんだから)定期的な集まりに顔出してよ」
そんなことを義務化する必要って本当はなくて
(参加したければ、楽しいと思うならもちろん良いと思いますが)

「友達なんだから教えてよ」と言ってしつこく聞いてくるのは
単なる相手の「知りたい、把握しておきたい」というエゴ
「自分の頭の中のアドレス帳」の空白を埋めたいにすぎないですよね。

身近な人と比べたい、真似したい、勝ちたいが本音

あるいは、実際はマウンティングしたいだけということも多いでしょうし
結婚・出産の報告をするための自慢相手リストをストックしておきたいだけでしょう。

それはそれで、相手を人とも思っていないようで
ちょっと薄情だなとすら思います。
(そういう頭数ばかり集めるのに必死な人に限って、
欠席するとこちらに罪悪感を刷り込ませてくるのも上手だったりしますし)

学生時代はテストの点数や成績で競い合い、
社会人になったら会社の規模や年収で競い合い、
年老いたら健康診断の数値で競い合い、
比べるのが大好きな日本人。

勝って手に入るものなんて、その場限りの虚栄心だけなのに
ほんと、くだらないですよね。

「今ここ」でつながれないなら
その関係は終わっている

先のSNSのお話のように
今現在の相手のステータスを知らなくとも
最後に会ってから何年経っていようとも
一時期仲良くコミュニケーションを取れた相手であれば
またつながることができると思うし

その「つながり」って、
すれ違い際に「よっ!」って手を振り合って挨拶をするくらい
軽やかで自然なものなんだな、と思ったのでした。

連絡やコンタクトが来て不自然な人は
もはや他人

逆に、
「わざわざ連絡するのもな…」と躊躇してしまったり
「今更いきなり連絡よこして、何??」と身構えてしまったりするなら
その関係はもう死んでしまったも同然なのではないかなと。

話しかけたりかけられたりが不自然に思えてしまうなら
それはもう見知らぬ他人と変わらないわけで
友達とはいえませんよね。

こうやって偉そうに書いていますが
わたしも仲良くしたいなと思っていた人から返事が来なかったり、
他人行儀にあしらわれて悲しい思いをしたり
切れていった縁はたくさんあります。

自分が楽しかった、気持ちよく過ごせた時って
その裏で相手は微細な不快を我慢してくれていたり、お膳立てしてくれていたり
多少無理して合わせてくれているかもしれない、ということも多いですし
そもそも最初から社交辞令で、友達だとすら思っていなかったかもしれないし
過去の自分の行いの答え合わせなんでしょうね。
(急に反省会になった)

つながりたいならつながるな

つまり、
つながりが切れるか切れないか、
接点ができたとき、また自然に関わることができるかって
物理的な距離や最後に会って日が開いているかは関係ないんじゃないかなと思うし

つながり続けている、イコール定期的に会っている
というわけでもないのかなと思うのです。

縁が切れるのは自然なこと
またつながるのはお互いの意志

引っ越しや卒業、転職など
物理的に生活環境が変われば、
それまで付き合ってきた人とのつながりが切れるのは自然なこと。

そのうえで、お互いに信頼感が残っていたり、つながりたい気持ちがあれば、
然るべきタイミングでまたつながれると思うのです。

だからといって、それをつなぎとめるために
グループLINEや定期的な飲み会をして
会うたびにいつも同じ昔話をするのって不自然だし
(繰り返しますが、やりたかったり、それをやって楽しいなら
大いにやっていいと思いますけどね)
切れるべくものを無理やりつぎはぎして補修していたのであれば
いつかどこかで綻びが出てくるはずです。

友達のことを存在ごと忘れるなんて、そうそうありませんしね。

仮に一時期縁が切れたとしても、連絡が取れなくなったとしても、
お互いのステータスがわからなくても、共通の話題がなくなっても、
引っ越しやライフステージの変化で疎遠になってしまったとしても
つながれる人とは、また自然とつながれるし
昨日会ったかのように会話できる。

そしてそのためにお互いを縛るのではなくて、
「At Present」、今この瞬間を共有できれば
それで充分すぎるくらい喜ばしいことじゃないか。

わたしはそう信じて、自戒を込めて、
今日も独りで戦います。

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