コロナが流行してから、数えきれないほど
「コロナが怖い」という世間話をしました。
マスクを1ミリもずらさまいと
神経質になっている人もよく見かけます。
死守した命で、何をしたいのか
エチケットや自分の身を守る感染対策としては
上記はもちろんとても素晴らしいです。
疫病で死にたくない、人に移したくない気持ちは誰でもあるでしょうし
わたしだってありますからね。
ですが、エチケットの域を超えて
異様なほどにコロナを恐れて「生」に執着する
「コロナ脳」や「自粛警察」を見る度に、色々思ってしまいます。
というかそもそも、
マスクにそこまで完璧な予防効果があるわけではないのに
マスク1枚に期待しすぎだから。
そこまでしてテレビが観たいのか
というのも、そういう人たちって
(コロナ以前も含め)普段は何をしているかというと
1日中テレビを観てボーっと過ごしているとか、
何もすることがなく退屈している(だったら働けよ)人ばっかりなんです。
もっとひどい人だと、
あることないこと文句をつけては執拗に絡んできて、
わたしたちの時間を無為に奪おうとしてくるいっそコロナに駆除してもらいたい人も少なくありません。
むしろ、そういうコロナ脳ほど、やたらと怖がる割に
「自分も移す可能性がある」ことは棚に上げて
やたら大きな声でしゃべりまくるので、こちらが怖いくらいなんですが。
まともに働いている人は、
コロナの話なんてわざわざしないし、
しても天気の話のような、挨拶代わりのようなもの。
まぁ、テレビを観ているからこそ「コロナ脳」になってしまうのもあるのでしょうが…
わたしが思うのは、こういう生に執着する人たちを目にするたびに
命の無駄遣いをしていると思わざるを得ないのです。
生きている理由が
「死ぬのが怖いから」という人たち
何のために死にたくないかというと、
ただ苦しいのがイヤなだけだったりして
じゃあ、生きて何をしたいかというと、何も目的も使命もない。
ただダラダラと見たくもないテレビを観るために生きて
挙句、自分がラクするためだけに、人をこき使って文句を言いたい放題して
「もらう」ことや自分が得することしか考えられず、
自分が何のために生きていきたいか、どんな風に命を使いたいかなんて
考えたことがないんだろうなぁと思ってしまいます。
死をタブー視し、生にあぐらをかく人
コロナ脳はあくまで一例として挙げたまでですが
コロナ禍でそれが著明に浮き彫りになったと感じています。
思考停止して、
- 死ぬこと=悪いこと
- 長生き=良いこと
と考える割に、
その「生」の中身が置き去りになっている人があまりに多いなと。
マスクで死守した今日この日を使って、
誰かに感謝されましたか?
昨日より成長したことはありますか?
大切な気付きや発見はありましたか?
何か楽しい思い出を作りましたか?と、問いたい。
いつまでもあるものに
ありがたみは感じられない
「死ぬなんて言っちゃダメだよ!!」とか、
死を口にする人に対して、うつ病などの心配を過剰にして腫物扱いするような
死をタブー視する人は多いですが
そういう人ほど、死ぬことを過剰に恐れて
死ぬことから目を逸らして逃げている。
そうなると、「死」はもはや他人事、自分には関係ないことになり
あたかもいつまでも今この瞬間や健康という「生」があると思いこむようになります。
「いつまでも生きられる」が
怠惰を生む
人間、努力せずとも当たり前に手に入るものや
逃げていかないものに対しては
有難みを感じられなくなってくるものです。
死の恐怖を忘れた人はどうなるかというと、
自分や相手を良くしたい向上心より、ラクしたいという怠惰が勝って
冒頭に書いたような、死を怖がる割に何もせずダラダラしている人や
他人にたかる人が生まれるということですね。
決まってそういう人は、大事なことを先延ばしにし
リスクのあることはやらないくせして
健康長寿という話には我先にと飛びついて
「いかに寿命を伸ばすか」が最優先事項になっている。
「死ぬかもしれない」から
今を生きようとできる
いつまでも健康で長生きすること自体はいいことかもしれませんが、
生きること自体は、真の目的ではないですよね。
もちろん、誰だって死にたくないし、死ぬのは怖い。
わたしだってそうです。
だけど、「死なないために生きる」ことほど、愚かなことってないと思っていて。
(言うまでもありませんが、闘病している方などは別ですよ)
そこまでして執着した「生」の中身が空っぽだったら、
たとえ死を回避して長生きしたところで、
ダラダラとやることもなくテレビを観てお菓子を食べるだけ、
たまに焦って他人の足を引っ張るだけだったら。
それって、誰のためになっているんだろう
あなたが生きることで、(あなた自身も含め)誰が喜ぶんだろう…と思ってしまいます。
まぁ、せいぜいテレビと嗜好品メーカーの売上に貢献しているくらいでしょうか。
両業界が巨大産業となっていること自体が
そういうダラダラ生きしている人の多さを証明していますよね。
死ぬかもしれないから
生を残そうと努力する
逆説的かもしれませんが、太古の昔から
生きる知恵やサバイバル力、社会に生きた証を残そうとするエネルギーって
「死ぬかもしれないリスク」と引き換えに得られてきたんじゃないかなと思うんです。
生きるために、殺されるかもしれないリスクを背負って獲物を狩る。
そんなリスクを冒さなくてもよくなった現代でも、
その本質は変わらないと思っています。
長寿のための健康法やサプリも色々ありますが、
そこまでして長く生きたいなら、その生きている間、何をしたいのか。
確実に生きている今日この日、何をしたか。
どう生きたか。誰にどんな影響を与えたか。
そういう人生の中身と向き合うことが一番肝心なのではないかと
つくづく思うのです。
まとめ:死に向き合うから
今ここの生が輝く
わたしは持病があるわけでもないし
生死の境を彷徨ったこともありません。
だけど、長年メンタルの不調を抱えていて
死んでしまおうかという衝動に駆られながら生きてきました。
常に「自分はいつか死ぬ。それは今日このあとかもしれないし、明日かもしれない」
という危機感と絶望感とともに生きていますし
老後の貯えなんて貯めている余裕は1ミリもないので、
呑気に80歳やら100歳まで生きるつもりもありません。
いつかなくなるからこそ
儚くて美しい
それは、ネガティブだとか悲しいことではなくて
背後にそういう恐れや期限が見えているからこそ、
今やりたいことをやろうと真剣に向き合うことができていると思っています。
死を背負っている人は美しい
花はいつか枯れてしまうからこそ、儚くて美しい。
これは、自分だけじゃなくて
事故や大病を患ったり、大切な人の死を経験したり、修羅場をくぐり抜けたり
そういう、片隅に「死」を背負っている人ほど、
今を生き切っていて美しいと感じるのです。
死なないように生きるのではなく、
いずれ死ぬからこそ、今を生きて、味わう。
そうやって、生への有限性を感じることで
今この瞬間を大事に、意味あるものにしようという意欲が湧いてくる気がするのです。