公開日: 2020/07/20  最終更新日: 2021/08/30

最近、まだまだ未来に希望のある若い方の自殺のニュースが相次ぎ
心がとても痛みます。

そして、全然、他人事とは思えない。

これって、コロナの影響とか、この場に及んでいきなりではなく、
あえて言うなら、これまでずっとギリギリで生きてきた人たちが
コロナ自粛や感染拡大によって「とどめ」をさされてしまったのではないかなと
わたしは考えます。

無論、真意はわかりませんから
外野があれこれ仮説を立てるのは余計なお世話なのは承知ですけれど
そういう人は実際に多いんじゃないかなって。

生きている=オールオッケーという誤解

ゼロか100かの2択で考えちゃいけない。

今こうして生きて無事な人はみんな「大丈夫」と思いがちですが
今現在、はた目から見れば元気そうに生きている人だって
他人から見えないだけで、辛いことや悲しいこと、しんどいことを抱えているわけで。

幸せかどうかは本人にしかわからない

お金や地位がある=幸せとも限らないし、逆も然り。
その人が幸せかどうかは、決して他人が決められることではないのです。
まれに本当に何不自由ない幸せな人もいますが、ほんと凄いと思う。

男性から見て女はいいよな、と思えたり
女性から見て男性は良いわよね、と思えたり、
大人が羨ましく見える子供
若者に嫉妬する年配者
お年寄りや子供が羨ましく見える現役世代、
既婚者が羨ましい独身者と
独身に戻りたい既婚者、
海外が羨ましい日本人…

みんなみんな、ギリギリの中で必死だし
何かを得ることは、他のなにかとトレードオフになることもしばしばで
ひとつ確実なのは、願ったってその人にはなれない。
結局、今ここに授かった自分の人生と向き合うほかないのです。

仮にその人になったところで、
また別のなにかが満たされないことに気が付くはずでしょう。

つまり、自分以外の他人の痛みは
見えていないから無いように見える
だけにすぎないのです。

生きてる人に、厳しくね?

なのに思うのは
健康に生きている人のことを
あたかも余裕があり、何不自由なく生活しているように捉えてしまいがちで
生きている人に厳しすぎないかと思うんですよ。

亡くなると称えられ、生還すると責められる

直近のわかりやすい例だと、
芸能界でも残念ながらコロナでお亡くなりになられた方と
一時は危ない状態になりながらも無事に快復された方がいましたが
後者の方は、無事に快復されたんだ!よかった!と思いきや
謝罪を求める記事ばかり目にした記憶が新しいですが…
あれ、不思議でなりませんでした。

せっかく一命をとりとめたのに、謝罪??

どうして素直に
「よかったね」と迎えて祝福してあげられないんだろう、
そりゃ、お仕事に穴を空けたりはあったでしょうが、そんなに責めなくても…と。
(もしかするとメディアの切り取り方かもしれませんが
それを見たいと求める大衆がいるのもまた事実)

これではまるで、亡くなったらヒーローで、生還したら悪人のような
日本人特有の「かわいそう=正義」的な思考ですよねぇ…

生きて話せるうちに直接褒め称えない不思議

亡くなった人を称賛するにしても
どうせ称賛するなら、本人が生きているうちに直接耳に入るようにするのが一番喜んでもらえると思うんですが
なんでそうしないんでしょうね。

生きていることに喜びを感じられない社会って、どうよ

こんな、お互いを責め合う社会では
生きていることそのものが嫌になっても、もう仕方ありませんよね。
というか、鬱とか心の病なんてなくても、生きていることが嫌になっても仕方ない気がしてならない。

価値ある人を殺す社会

表現があまり適切でないのは承知で書くと、
若くて元気で社会に労働力を提供していて
実際に人に必要とされていたり、何かを作ったり生み出したり繋いだり、
あるいは存在するだけで人に喜んでもらえる魅力のあるような
そんな「価値のある」人が死にたくなる社会って、
自己価値を感じられない社会って、どうなんだろうなって思うんです。

なんか、すごく悔しいんです。

わかんない、
実際は社会なんてまったく関係ない、個人的な悩みや失恋とかかもしれない。
持病があったのかもしれない。
深い意味がなく、衝動的なものかもしれない。
もしかしたら、満たされすぎて怖くなったり、飽きてしまったのかもしれない。
亡くなった当人は幸せだったのかもしれない。

成果を出せば依存される

だけど、一つ確かなことは
身の丈以上に過保護なこの国は
そういう「価値ある人」や、今現在頑張っている人に甘えすぎている
そのしわ寄せは必ず来るし、既に来ていると思っています。

期待のしすぎは、ただの依存。
そういう人に嫉妬して足を引っ張ったところで
自分たちの乗っている船をゆっくり沈めているようなものなのに
浅はかだなぁと。

自分が経験したからこそ他人事と思えない

外野があれこれ言及すべきじゃないといいながら
なんでこんなに真剣に書いているかというと
亡くなられた方のファンというわけでもないのですが(テレビ見ない)
自分にもそういう時期があったから、他人事の問題とは思えなくて。

また、「辛いのは自分だけだ」と悲壮感に浸っていた最中
幸せそうに見えた親しい友人が自ら命を絶って亡くなってしまった過去もあり
他人の痛みって見えないものだな…ということも実感しました。

人の命を守ってきた人が
自分の命を捨ててしまった悲しさ

医療従事者として毎日毎日、技術と自身のリソースを費やして
赤の他人の健康をたくさん守ってきた優しい人が、あっけなく亡くなってしまう。
健康だったのに、その授かった健康を自らを殺めるために使うなんて、悲しすぎる。

本当に悔しいし、こんなのなんかおかしい。

事業がうまく軌道に乗らず、いわゆる適齢期を過ぎても独り身のまま、
貯金も底を尽き、当時なにも残っていなかったわたしは
いつ死のうかと漠然と思っていましたが、

いい加減、アルバイトの掛け持ちをやめて就職しようと腹を決めた午前3時の闇。

その矢先の出来事で、色々考えさせられました。

「病気」で片付けられるものでもなさそう

こういうと、「(治療すれば治る)病気だ」という人も一定数いますが
なんかそれだけで片付く問題でもないような気がするんです。

実際、薬を飲んでも根本的な解決にはならないし
医療現場でもそれできれいさっぱり完治した人を見たことがありません。

心の抵抗力は上げられるが
不可抗力も確実にある

私の場合は食事改善を学んで自分の体で実験し
今ではひどかった時よりもかなりメンタルは安定しているので
心の基盤を強固にすることはたしかに大事だとは思います。

→気まぐれにしか更新していませんが、興味のある方はどうぞ
※あくまで個人の体験談で、必ずしもすべての方に有効とは限りません

だけどそれ以上に抗えない、大きな負の流れが
やっぱり今の社会にはありますよね。

実害もないのに揚げ足取って責めて
他人を蹴落として相対的に優越感に浸る、みたいなの
ほんと多くて、メンタルがいくら健全でも滅入りますよね…

お悔やみ言っても本人に届かない

わたし、お悔やみを言い合う文化ってなんか嫌なんです。

言いたくなる気持ちはわかるんですが、
本人がいなくなったところでどんな綺麗な言葉を言ったって届かないし、
それって、「こんなにあなたのこと想っていた自分」アピールとか
生きているうちに言葉や態度で伝えなかった言い訳にしか聞こえない。

大切なら、生きてる間に支え合えばいい

だからわたしは、相手に伝えられるその瞬間に感謝を伝えるようにしているし
逆に、心から感謝できないような相手とは、時間と精神力の無駄なので
接点を極限まで減らすようにしています。

仮にわたしが死んだときに亡骸の前で
大して仲良くもなかった、あんまり関わらなかった人から
知ったようなことや、仲良しぶってお悔やみを言われるのは絶対に嫌なので
お互いに関わり合っていけないような、うわべだけの薄い縁は切りました。

生きてる人同士、尊重し合える社会を

今関われる人しかいらない。
だから、今関わってくれる人を尊重しながら生きていく。

とりとめのないことを書いてしまいましたが
社会を一方的に責めるではなく、今の自分に微力ながらできることって
目の前のたった一人を大切にすることに尽きるのかな、という結論です。

どうせ生きるなら、
生きていることを喜べる社会に

最終的に死ぬことを選んだのは、本人ですが
思いとどまらせて「死ななきゃオッケー」とも、わたしは思いません。

「死なせない」はあくまでまわりの自己満足。
少なくとも死にたくなるに至ったネガティブな要因があるわけで。
生きるからには笑っていたいじゃないですか。

頑張っている人が報われるように、というと
苦労至上主義みたいな表現にも捉えられかねないですが
実際に価値あることをして頑張っている人が
生きていてよかったと満足感を得られるために。

そんな当たり前のことを理想として掲げなきゃいけないのが悲しいですが
そんな社会に1ミリでも何か残せたらなという思いです。

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