公開日: 2021/12/16  最終更新日: 2021/12/26

こんにちは。

11月から
三重県の伊勢志摩地方に、出稼ぎに来ています。

仕事はしんどいけど、空気も食べ物もおいしいし
住環境は快適すぎて、ずっと住んでいたいくらい。
雪降らないし。

電車は1時間に1本で十分

「不便な田舎」と形容されることもあるこの地方ですが
私は元々電車の通っていない、限界集落と呼ばれるほどの田舎で生まれ育ったので
特段不便とは感じません。

むしろ、1〜2時間おきに電車が通っているなら十分便利。
バスもあるし。
(よく乗り遅れるけどw)

田舎の時間が
ゆったりしている理由

よく
「田舎では時間がゆっくり過ぎていく」といわれますが…

都会に住んでいようと、田舎に住んでいようと
人間の活動なんて、そう変わらないはずなのに
どうして時間の感覚が違うように感じるんだろう?と思うんですよね。

都会にいると、
必要以上に人と比べたり
他人から見劣りしないようにと要らないものを買ったり
付き合いのための菓子折りやらプレゼントを買ったり
流行りの場所に行ったり…

と、不要不急の欲や虚栄心を満たすための娯楽や
用事のための用事を作るという感じでしょうか。

用事が一つ増えると、
そのためにも移動や調べものが伴ったりして
雪だるま式に時間やお金を消耗しますしねぇ。

他人のノイズがない

田舎に住んでいて、なにより一番快適に感じるのは
騒音がないこと。

都会に住んでいる時のような
暴走族がブリブリ自己主張する音や
酒を飲めば何でも許されると勘違いしている酔っ払いの狂乱、
何時ごろに来そうだとパターンが読めてしまうほど
1日に何度もけたたましく往来する救急車や消防車や
人間のゴミに狂喜するカラス。

そんなものが一切なくて
ただ小鳥のさえずりと木が揺れる音が聴こえてくるだけなのが
思考を遮られることがなく、とても心地が良い。

庭に竹が生えてる

そんな生活を味わってみて改めて
都会では、知りもしない大衆の生活を
無意識のうちに背負わされすぎているのかなと
改めて思ったのでした。

便利さと引き換えに
無意識に他人の存在を背負っているというか。

「なんとなく都会が安心」
という依存心

とはいえ、
「スローライフ」というほど
田舎の生活は甘くない気もしています。

田舎なので、若い人よりご年配の方を多く見かけますが
こちらのご年配の方は驚くほど体力も思考もしっかりしていて
なんというか、「かまってくれ」「助けてくれ」みたいな依存心を感じさせません

道端で転んだお年寄りの方に
「大丈夫ですか?!」と声を掛けたら
あんた誰だ、といった感じで睨まれた。すみません…

体の丈夫さが生命線

まぁ、それはたまたまかもしれないし
わたしが一見して観光客だからかもしれませんが
前述したように交通の便も少ないし、坂道も多い
コンビニのようにいつでもすぐに名医のいる病院に行けるとは限らない。

そんな環境の田舎では
体や頭がしっかりしていることは、生命線でもあるのでしょう。
だから、自分がしっかりしていなきゃいけない。

自立心は
自分が生き抜くためのもの

これって、本当は
生きていくうえで至極当たり前のことですよね。

なのに、都会で暮らしている人(お年寄りに限らず)って
こんな当たり前のことをすっかり忘れていたりする。

誰かが何とかしてくれるのが当然で、
他人にあれしろだの、こうするべきだとか
自分本位で途方もない要求をして
挙句の果てには他人や政治を責める。

例に漏れず自分自身も
都会という何か見えない大きなものに寄りかかっていたんだなと
こちらの住民の方のたくましさを見て、恥ずかしくなったのでした。

自立性を失い
寄生し合う都会人

都会に住むこと自体を蔑むわけではありませんし
どこでどう暮らすかはその人の価値観次第でしょうが
「たくさん人がいるから」という
なんとなくで実体のない安心感を得ていることに
田舎で生活してみて、気が付いたのでした。

都会の安心感の正体

そしてその「なんとなくの安心感」って
本当に恩恵を得ているのかな?って。

「何となく安心だから」という理由を対価として
選択肢を狭めて何かを犠牲にしているのではないかと。

たしかに、都会には徒歩圏内に24時間開いているコンビニがあって、
買い物にも交通にも不自由しない、便利な生活ができるうえ
大衆に埋没できるので、プライバシーも確保されていて
口うるさい老害から干渉されることも、あまりありません。(あまり、ね)

誰にも何にも言われないで、自由に暮らせる気楽さと
常にまわりに人がいる安心感はあります。

道端で倒れても、誰にも気付かれないほうが難しいでしょう。

都会で得られるものはあるか

けど、本当に「その他大勢」に溶け込みすぎて
個を埋没したまま寿命を消耗してしまうだけなら。

それって、都会にお金を落とし続けながら
人生を消化試合しているだけにすぎないのではないか。

もちろん、人が集まる環境や
どこにでもアクセスしやすい立地を生かせている人もいるでしょう。

しかし、そういう人って
ごく一部の才能ある人や
主体的に動ける人くらいなのが現状ではないでしょうか。
(そして、主体的に動けるのであれば
都会とか田舎とかいう要素はあまり関係ないはず)

ラクしたいがために
人生を消化試合にしていないか

実際は、自分ひとりの足で立つ力のない弱者が
便利な大量生産大型スーパーや人の集合体という大きなものに相互依存し合って
流れ作業で作られた砂糖と小麦粉の塊を日々貪り
誰にも存在を認知されず、かつ、他人のノイズを浴びながら
なんとなく安心しているにすぎないのかなって、自分事含めて思うんです。

(とはいえ、この記事は
主体性のなさについて論じているのであって
言うまでもなく、人の手助けが必要な方や
都会に住む事情がある方を蔑んでいるわけではありません。)

都会のリソースを活用できる人
都会にぶら下がり養分になる人

都会にいると、なんとなく
最先端の技術やエンタメの恩恵にあずかれる気がしますが
その技術にぶら下がって、「恩恵」を待っているだけの
主体性のないクレクレが9割以上なのが実情なんじゃないか。
(自分含め)

そして、そういう9割以上の人が
無意識的かつ中毒的に落とすお金を養分にして
テクノロジーやエンターテインメントがさらに育つという皮肉なスパイラル。

それが積み重なって格差社会になるのかなぁ
なんて思ったりします。

ま、わたし自身も今は
そこにぶら下がることしかできていないんですけれどねぇ。

まとめ:
自立した暮らしは
目的と体力ありき

という感じで
目的や主体性がないままでの都会暮らしは、都会の養分になるだけで
それは、便利な都会との相互依存にすぎないのではないか。
そんなことを感じたので、記事にしてみました。

自分で自分を養う逞しさと力強さ。

スポーツは嫌いだし、筋トレも興味はないけど
筋トレ好きの人がよく言っている「筋肉は裏切らない」は
あながち間違っていないのかもしれませんね!

そんなことを、日常から離れた場所から客観視して
何かできることはないかなぁと堂々巡りしています。

そんな、とりとめのない雑感を
美しい景色とともにお楽しみいただけましたでしょうか。

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